エレベーターの可能性が広がる

三段式の本体に、さらに四段目のロケットと人工衛星を搭載した、全長十六メートル五十三センチ、最大直径七十三・五センチの機体である。
しかし打ち上げは正常だったものの、残念ながら第二段と第三段の分離機構が作動せず、機体は行方不明となってしまった。
それから三カ月後の十二月、二号機が打ち上げられた。
このときは、第一段、第二段、第三段ともどうにか予定にちかい状態で飛翔し、うまくゆくかに思われた。
ところが第四段ロケット・モーターの点火ができず、結局はまたも衛星の軌道投入は失敗に終わった。
三号機が打ち上げられたのは、四カ月後の翌六七年四月である。
あと一歩のところで失敗となった二号機の反省から、三号機にはいくつもの改良がくわえられ、こんどこそと期待されていた。
しかし、打ち上げから第一段、第二段と順調に燃焼はすすんだものの、第三段ロケットの固体燃料は、ついに点火されなかった。
失敗は、さらにつづく。
このあとしばらく時間をおいて、六九年の九月に四号機が打ち上げられた。
第一段、第二段とも問題はなく、第三段も分離され、最終段の衛星搭載部は姿勢制御もうまくいった。
ところが、切り離されていた第三段ロケットが、衛星搭載部に衝突してしまったのだ。
原因は、第三段にまだ推力が残っていて、その力で追いかけてきたことによる〝追突事故″だった。
失敗の連続は、しかし発見と学習の連続でもある。
一九七〇年の二月十一日、ラムダー4S型の五号機は、ついに日本初の人工衛星「おおすみ」の打ち上げに成功し、日本中を興奮の渦に巻きこんだ。
当日はちょうど建国記念日で新聞は休刊日だったものの、テレビによる中継が制約その2宇宙のパックス・アメリカーナ全国に映像を流した。
そして人々のあいだには、これで日本も宇宙開発先進国に仲間入りをしたという印象がひろがっていったのだった。
しかし現実的に見れば、アメリカがアポロ11号で人類初の月面着陸に成功したのは、その前年の七月二十日である。
そればかりではない。
「おおすみ」が成功した七〇年は、一年のあいだに世界で打ち上げられた人工衛星の合計機数が、百二十七機にもなる。
また、前年までに打ち上げられた衛星の総数は、千七十三機にものぼっていたのである。
こうした数と比較すれば、日本で最初の人工衛星「おおすみ」も、世界では千百番目ちかい。
したがって単純に考えれば、〝星屑″の一つにすぎなかったといってよいだろう。
しかしそれは、たんに〝星″のみに注目すれば、という単純な話であって、実際にはまったくちがう。
モノサシを「自力で衛星を上げた国」におきかえると、日本は、旧ソヴィエト、アメリカ、フランスについで、四番目だったのである。
それ以前にイタリアやオーストラリアなど多くの国々が衛星を上げているが、それらはアメリカのロケットによって打ち上げられていたのだ。
そういう意味で「おおすみ」は、星屑どころかひじょうに大きな輝く〝星″だったといってよい。
だが、ここからが問題だった。
「おおすみ」の成功は、かならずLも他の国々からは歓迎されてはいなかった。
もっとも眉をしかめていたのは、アメリカである。
このころの日米関係は、けっしてまずい状態ではない。
日米安保体制のもとで緊密な関係を維持していたし、さらにヴェトナム戦争では日本はアメリカの政策を支持しつづけるほどに協力的である。
にもかかわらずアメリカは、この東大の「おおすみ」成功に対しては神経質になっていた。
歓迎しないどころか、なんとか押し潰してしまいたいほど嫌っていたのだ。
なぜアメリカは嫌っていたか。
背景にあったものは、東大ロケットゆえの問題ではない。
宇宙政策の根幹にかかわる問題だ。
そして日本のロケット研究と宇宙開発は、この間題とともにあゆんできたのである。
一九九六年の三月。
ワシントンで、ある機密公文書が解禁になった。
宇宙開発における日米の協力条件を取り決めた「日米交換公文」が一九六九年に締結されるまでにいたる、アメリカ内部における動きを記した文書である。
(以下に引用するのは、その公文書についてNASDA・宇宙開発事業団がCSPジャパンをつうじ、ジョージ・ワシントン大学・宇宙政策研究所のログスドン教授に委託した分析結果の報告書である)解禁となった文書のなかには、次のような一文があった。
きる」アメリカの軍備管理・縮小局が、宇宙評議会ワーキンググループでまとめたレポート、「宇宙開発における対日協力・軍備管理の検討」の一部だ。
この資料が作成されたのは、六五年の九月ごろと思われる。
東大の宇宙航空研究所がL14打ち上げ後に第二段と第三段の分離機構が作動しなかったロケットである。
結果的には失敗だったのだが、その前年からアメリカは、日本は「今後3年以内に独自で核弾道ミサイルを開発できる」と判断していた。
いうまでもなく、アメリカは当時すでに核弾道ミサイルの開発でソヴィエトと競争状態にあった。
その豊富な経験に照合し、L14S型ロケットの打ち上げは三年以内に成功すると見ていたのだろう。
その予測より二年ほど遅れたものの、L14S型ロケットの人工衛星打ち上げは、七〇年に成功した。
言葉をかえれば、このとき日本は核弾道ミサイルの技術を手に入れたのである。
もちろん、日本国内では「おおすみ」打ち上げ成功をそのように見る人は、さほど多くはなかった。
開発の主体が東大という教育機関であれば、まさかそれが核ミサイル技術であるなど誰も考えない。
一部にはうがった見方をする人もいただろうが、少なくとも日本の社会は宇宙研究の第一歩と見ていた。
しかしアメリカの視点に立てば、主体がなんであろうと関係ない。
純粋に技術的に判断していたのである。
では、なぜアメリカは、東大ロケットを核ミサイルに結びつけて見ていたのか。
これを理解するためには、一九六二年のヨーロッパの状況を知らなければならない。
この年、ヨーロッパでは、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを中心にした、欧州宇宙研究機構と欧州宇宙ロケット開発機構が発足している。
それを運ぶ〝足″、つまりロケットという輸送手段を、自力開発することをめざしていた。
こうした共同機構が設立された背景にあったのは、もちろん米ソの宇宙競争である。
前年の六一年の四月には、ソヴイエトはガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行に成功している。
そして翌五月にアメリカでは、ケネディが例の「六〇年代の終わりまでに人類を月面に送る」という演説をしていた。
米ソの競争は、ますます激化していたのである。
ヨーロッパの国々も、これに対抗する策を練った。
当時、すでにイギリスやフランスでは独自のロケット開発をすすめていた。
しかしバラバラでやっていては、時間的にも技術的にも対抗できそうもないことから、力を結集することになったのだ。
ただしヨーロッパが選択したのは、米ソのような軍事や有人宇宙計画ではなく、実験衛星や商業衛星の打ち上げである。
科学研究をすすめて、技術分野に応用することが目的だった。
そして各国協同による大型ロケット、「ヨーロッパI」が開発された。
第一段をイギリスが、第二段をフランスが、そして第三段をドイツが担当するなど、それまでに各国で開発してきたロケットを組み合わせたものだった。
しかし六四年、ヨーロッパIはオーストラリア大陸中央部・ウーメラ基地での打ち上げに失敗。

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